︎加古隆の「宮沢賢治と私」エピソード
2024年秋、10月からスタートする加古隆のコンサートツアーは「銀河の旅びと〜宮沢賢治と私」です。
何故、宮沢賢治…?と思われる方々のために、メディア取材で加古隆が語った言葉を、同席したスタッフがまとめてみました。
エピソード第1話から第6話をご一読ください。
「そもそもの加古さんと宮沢賢治との出会いを教えてくださいますか」
インタビューアーのほとんど全員が聞いてきました。
二つの思い出があります…と前置きして、加古隆が語り始めます。
『宮沢賢治の作品は、多くの子供達と同様に小・中学生で多少は読んでいたと思います。
初めてハッキリと心にとまったのは確か1979年頃(30代になっていた)。
パリに住んでいたのですが、その日はイタリアのフィレンツェに滞在していました。
冬でした。
外は雨でとても寒くホテルの部屋に閉じこもっていて、何気なくカバンに入れてきていた賢治の小さい童話集を開いたのです。
薄暗い部屋で読んでいる私。
登場するのはうさぎの子。
ある朝、野原に出ていくと…
草には朝露のしずくが朝の光にキラキラして……
そよ風が吹いてくると、鈴蘭の花と葉っぱが揺らいでこすれて
シャリン、シャリンと音がして…
野原はとってもいい匂い…
うさぎはうれしくてぴょんぴょん跳ねている…
このような感じの冒頭のたった数行だったのですが、私は心がふるえパッと一瞬でその野原へ連れて行かれました。
シャリン、シャリンと音が聞こえるようだ。すてきな世界だ。
宮沢賢治という人は凄いな。
本当にこういう光を匂いを音を実際に見たり感じた人なのだ、と初めてその存在が強く心にとまったのです。』
「それは何という童話ですか?」
『貝の火、です。』
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作曲家への道をひと筋に…と東京藝術大学からフランスへ、パリ国立高等音楽院に留学した加古隆だが、フリージャズ・ピアニストとしてパリ・デビューという日もやって来る。
コンサートツアーでヨーロッパ中を歴訪し、巨匠オリヴィエ・メシアンの教室からは次第に足が遠のいていた、と言う。第1話でフィレンツェに滞在していたのは、そんな時期。
次のエピソードは、帰国後の1986年頃の日本に飛びます。
『初めて新幹線の新花巻駅に降り立つと、迎えに来てくれていたコンサート主催の方が、“宮沢賢治記念館“へ寄ってみましょうと、すぐに車で向かったのです。
事前に知らされていた訳でもありません。
雪がうっすら残っていて春はこれから、というような季節だったと思います。
他には人影もなく落ち着いて静かな美しい場所でした。
賢治が設計したという南斜花壇も眺めました。
そして驚く発見をしたのです。
童話作家としてしか知らなかった賢治は絵も描くし、大変な音楽愛好家で実際に弾いたというチェロも飾ってありました。それにSPと蓄音機も。
さらにこんな逸話も書かれています。
“盛岡へ(ベートーベンの?)コンサートへ行った。
あまりの感動に、その気持ちを大切に持って帰りたくて夜通し花巻まで歩いて帰った”
それを読んで、実は私にも似たような経験があったからなのですが、とても親近感を覚えたのです。
翌日が私のコンサートです。
終演後の打ち上げの席には、手伝っていた若い人も年輩者も様々な年代の人が集まっていました。
いつの間にか宮沢賢治の名前が出ると、その瞬間、私の周りのみんなの眼が急にキラキラ輝き出して、「賢治さんは…」「賢治は…」と嬉しそうに話すのです。
その土地に住んでいる人には無意識の表情だったのかと思いますが、部外者の私にはそれが非常に新鮮で心に焼きつきました。
ああ、賢治という人はこんなにも尊敬されて心からの誇りに思われている人なのだ、と。』
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第2話の宮沢賢治記念館は1986年当時の展示ですので、現在は規模も格段に大きくなっているのではないでしょうか。
さて同じ頃、ニッカウヰスキーのTV CMで流れた加古隆のピアノ曲がヒットしてアルバムにも収録されます。イングランド民謡グリーンスリーヴスを使って加古隆が作曲した「ポエジー」です。そしてまもなく、このアルバム制作を手がけたご担当者が思いがけないことを言い出したのでした。
『ある日、レコード会社のディレクターが相談にみえました。』
「加古さん、次のアルバムでは宮沢賢治をテーマに(言葉と音楽が混じり合ったものを)作ってみませんか?」
『エッ?と耳を疑いました。
その瞬間、絶対無理だ、と思いました。
私は言葉に音をつけていくのは苦手な方で、歌曲をどんどん書く方ではないし、音の動きから発想する器楽的なタイプだから、やれそうもない、と。
でも、すぐにはお断りせず数日考えました。
フィレンツェや花巻での思い出があった、そういう下敷きがあったからでしょう、
手がけてみようかな、という気持ちがふっと湧いてきたのです。
私は帰国してから程なく野沢那智さんにお会いしています。
俳優でもありアラン・ドロンなどの声優やラジオのディスクジョッキーとしても活躍する一方で、薔薇座という演劇集団を主宰していました。ちょうど上演する舞台やミュージカルの音楽監督の交代で、私を紹介した人がいたのです。
そんな時期でもあり、言葉と音楽という共通点で野沢さんに相談してみようと思い立ちました。』
やがて野沢那智が「宮沢賢治の全作品から選んでみました」と言って原稿を持って現れます。驚いたことに、そこには加古隆が初めて読む短歌も詩もありました。
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ことばと音楽のCDを作らなければならない、新たな挑戦がスタートしたわけです。ちょうどLPからCDに移行した時代でした。インタビューではアルバム制作過程の質問はあまり出ていませんが、「言葉に音をつけるのは苦手」な加古隆は次のように続けました。
何か全く別のアプローチが浮かんだのです。
『あくまでも賢治作品のスジを追ったり解説したり分析するものではなく。
音楽が言葉の伴奏ではなく、言葉が音楽の添え物ではないもの。
賢治が深く愛したものを手掛かりにして、言葉と音楽が響き合うような構成』
その具体的な作品例が少しだけ語られました。
『まず東北の美しい自然を感じる「北上は雲の中よりながれ来て…」という短歌を、イントロダクションとして全体の出だしに持ってきました。
今でもこの箇所を演奏し始めると、実りの秋の稲穂が金色に輝いて風にそよいでいる風景が、パーっと脳裏に広がっていきます。
曲名は「イーハトヴと賢治」にしました。
そのほかに野沢さんが選んだ作品には「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」などの童話に加えて、「永訣の朝」という詩がありました。
最愛の妹トシが逝ってしまう朝の光景です。』
『…蒼鉛(そうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる…
もう、この「びちょびちょ沈んでくる」を読んだだけで、ふりしぼるように書いている賢治の胸の内が迫ってきます。
ここの音楽は、詩の題名のままにしました。』
加古隆クァルテットのデビュー盤CD「QUARTET Ⅱ」には、ピアノとチェロによる「永訣の朝」が収録されている。この音楽にことばはどう織り込まれるのか、想像力を高めてみたい。
『さて、
どの作品を、どの言葉を、ラストに持ってこようか。
「これしかない」と思ったのは、「注文の多い料理店の序」という、短くも心に問いかける文章でした。
私たちは……
きれいにすきとほった風をたべ、
桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。…
初めて読んだ時から忘れがたい文を最終章に置き、透明感が感じられる音楽を私のピアノ・ソロで締めくくりました。』
やがてCD「KENJI」は完成し、ブックレット最終ページには野沢那智さんの掲載文、があります。
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CD制作の時には、曲によって弦楽オーケストラや金管やパーカッションも入るものになっていましたが、そのままではコンサートツアーは難しい。それで90年代に開催したコンサートでは「賢治から聴こえる音楽」と題して、ピアノ、チェロ、朗読という3人でのステージでした。
ちなみに今年のコンサートの朗読は加古隆の次男・加古臨王(リオン)が担当し、親子での初共演です。
『今年は、私自身の“加古隆クァルテット“のためにアレンジを施した新バージョンで、「賢治から聴こえる音楽」をやります。
クァルテットも結成から14年目になり、この新しい演目を非常に楽しみにしています。
それに、特別な演奏方法を求める曲があるので、メンバーはびっくりするかも知れませんね。
例えば「風の又三郎」のこういう描写。
“空が光ってキインキインとなっています”
えっ?空ってそんなふうに鳴らないでしょ?
でも実は、この幻想的な言葉から私が音や奏法を思いついているのです。
もう一つは、
“いきなり又三郎はひらっとそらへ飛びあがりました。
ガラスのマントがギラギラ光りました。”
ここは現実とは思えない、写真が反転した時のネガのようなシュールな世界を感じて、特殊な音使いが浮かんだ箇所です。
朗読は誰に?と思い巡らしました。
野沢さんも故人ですし、賢治作品を上演していた花巻在住の人に参加していただいた時期もありましたが、もう20数年以上も前のことです。
ふと息子・臨王が舞台俳優、声優、舞台演出家で活躍していることを思い出したのです。
幼い頃にブロードウェイ・ミュージカル“WEST SIDE STORY“のビデオをかぶりつくように観ていて、「振り」を全部覚えて踊っていた子でした。
最近は演出の仕事も多いようで、以前2つの舞台を観に行ったところ、なかなか良かったのです。
いい仕事してるな、と思っていました。
それで電話をしたところ、やってみたい、と。』
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若いインタビューアーの男性が呟いています。1988年に発表されたCD「KENJI」は廃盤になっているそうだ、それに、自分もまだ生まれていなかった、と。
それなら加古隆が宮沢賢治をテーマにしたことなど知らない人がいても当然なのだ。
賢治の人間像に迫る質問も出たりして加古隆が応えました。
『宮沢賢治は童話作家と言われますが、私は“詩人“だと思っています。
私が音を探す時というのは、想像力を燃やし音にあこがれる感覚なのですが、賢治のことばも、彼の全存在を賭けて生まれた心象スケッチ、あこがれが結晶したことばだと思います。
ですから賢治と私とを繋いでくれたものは、ポエジーpoésie(詩想)なのではないだろうか、と。
彼が深く愛してやまなかったもの、東北の自然、野原、朝つゆ、銀河、宇宙、風、妹トシ…、
それと私の音楽とが詩的なイメージでつながっている、そう感じてもらえるといいですね。
「賢治から聴こえる音楽」の最後のパートになる「注文の多い料理店の序」は、
“大正十二年十二月二十日 宮沢賢治”
という言葉で締めくくられますが、“大正”ということばを耳にしただけでも今の時代とは違った「ロマン」を感じるのです。
それに平安時代とか遠い祖先のことではない、誠実に生きた一人の人間、強く純粋な魂の持ち主の存在が、つい100年前くらいという近くの先輩にいたのですから、勇気づけられ希望が生まれますね。(ちなみに大正12年は西暦では1923年)
コンサート第1部では「映像の世紀バタフライエフェクト」のテーマ曲「パリは燃えているか」「風のリフレイン」「グラン・ボヤージュ」なども演奏します。こちらはまさに今生きている私たちに通じる歴史も思い起こさせるでしょう。
第2部の「賢治から聴こえる音楽」では、何か現代人が忘れてはいけないものを感じてもらえるのではないだろうか。
賢治のことばと私の音楽が響き合い、心ふるえる瞬間がいくつも持ってもらえるのでは?
そうあって欲しいと願っています。
終演後には、皆さんに爽やかな感動が押し寄せてくることを約束します(笑)。』
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今年のオリジナルコンサート「銀河の旅びと〜宮沢賢治と私」が決まった時に、加古隆は多くのインタビュー取材を受けました。その中から毎日新聞の関西版が送られてきました。
記事のタイトルは「宮沢賢治と向き合い 紡ぐ音」。
この見出しも中の文章も読み応えがあります。
エピソードと共にご一読ください。
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